背骨を折ったのは1997年10月だったでしょうか
リード100に乗って単独事故で電柱に激突しました
全て自分の過失でした
被害者が自分一人だったことは幸いでした
目を覚ましたのは東京大学付属病院の集中治療室
一命はとりとめました
喉の奥深くまで医療用チューブが差し込まれ言葉を発することもできませんでした
毎日見舞いに訪れてくれる家族とは筆談の毎日でした
容態が安定し埼玉県内の病院へ転院する前の晩に担当の先生から「もう二度と自分の足では歩けない」と、ずっとはぐらかされて答えてくれなかった一番聞きたかった質問の答えをもらいました
その時初めて完治しないケガがあることを知りました
人間は『脆い』と心の底から悟りました
しかし、その後に出会った医療関係者の方々や、家族の支援のお陰で奇跡が起きました
(この受傷から奇跡の過程を書くとと1冊の本が出来てしまいそうので省略させて頂きます)
翌年の4月にはマンション最上階の我が家に帰ってきました
自分の足で階段を上って半年ぶりに自分の家に帰りました
それまで働かせていただいていたバイク販売店の社長は今まで同様に働くことができないかもしれない私を暖かく迎え入れてくれ 社会復帰を果たしました
手動装置付きの車での通勤を余儀なくされた私のために社長は近くに駐車場まで借りてくれました
当然のことながら家族からはもう二度とバイクには乗らない事を強く言われておりましたし、当然もう自分の判断で乗らないだろうと思っていた様でした
その大変お世話になった社長の元を離れ開業
沢山のお客様にバイクを購入して頂き
多くのお客様が依頼された修理作業が深夜まで続く毎日でした
開業から付き合ってくれたホンダ学園の後輩、本橋メカは当時まだ経験が浅いにもかかわらず本当によく頑張ってくれました
開業早々に、二人で朝方までかけて初めてエンジンのフルオーバーホールに取り組んだのがBig1(SC30)のエンジンでした 終わったのは午前6時
そのお客様は大事な愛車のエンジンのフルオーバーホールを私たちに委ねてくれました
CBR1100XXの前後連動ABSのブレーキフルード交換は、まだ不慣れだったこともあり夜間から始めたとは言え終わったのが深夜2時
お客様は文句一つ言わず私たちを信じて午前2時の完成までただひたすら待ってくれました
整備のミスで菓子折り持参でお客様のところへ謝りに行った事も幾度となくありました
大好きなカスタマイズも積極的に行っていきましたが、これもたくさんの事を勉強させられました
チョッとしたカスタム(光るエアバルブキャップ交換)でタイヤの遠心力に負けたエアバルブが根元から変形し高速道路で走行不能になったX-4を引き上げに行き、こんな物はもう二度と付けまいと心に誓いました
純正のフローティングピンをサンダーで切り飛ばし代わりにつけたアルミのフローティングピンがわずかな時間で擦り減りガタガタになったX-4のブレーキディスクを見て背筋を凍らせました
三井さん、沢山勉強させていただきとても感謝しております
本橋メカを怒鳴ったり、挙句の果ては胸ぐらを掴んだことも幾度もありました
今思えば完全なブラック企業でした
そのてんちょーが営むブラックバイク屋で沢山の経験と苦労を積みながら本橋メカも、てんちょー自身も成長していきました
そんなある時、とうとうずっと思いを馳せていたマニュアルバイクに乗るという夢を叶えました
勤め人としてはあんな大ケガまでしてまたバイクに乗って何かあっては多大な迷惑を掛けてしまうので封印していましたが、自分のお店を持ったら自己責任でマニュアルバイクに乗ろうと決めていました
SS600マニアのてんちょーが選んだバイクは新車のCBR600F4iでした
(本当はその直前に発売されていた鉄フレームのスモーキンジョーが欲しくてたまらなかったんですけど既に完売してました)
自分の足でバイクを起こせたこと
発進後ステップに両足を載せてバランスが取れたこと
チェンジペダルが操作出来たこと
体重移動してコーナーが曲がれたこと
全てが感動の連続でした
その時、『しぶといところもある』のも人間だと思いました
そして、バイクに乗りたいこの想い、この気持ちってなんだろうと不思議にもなりました
あれから17年経った未だに答えが出せません
つづく
CBレーサーは週末でたくさんのお客様にご来店いただきましたので、あまり進みませんでしたが、それが何より幸せなことです
PS:今現在まだサービスピットでは神ジョーメカが新人シモンズメカに12カ月点検のノウハウをレクチャー中、シモンズメカ朝10時から50ccの12カ月点検を始め閉店時間7時までに終わらなかったので自分の担当する作業が終了した神ジョーメカが加勢しております。てんちょーも神ジョーメカも付き合いますので納得いくまで点検してください。昔を思い出せばまだまだ何時間でも付き合えますよ